In Blue Skies

とある獣医の青年海外協力隊日記からのイギリス大学院留学

屠ること

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朝、配属先に行ったら、いやにひっそりとしている。

ガーナ北部はイスラム圏のため、犠牲祭であるイード休暇がちょうど次の日からはじまるという情報を得ていたので、

「おいおい。前倒しで休んでやがんのかよ笑」

と思ってのほほんとしていたら、

同僚曰く、

「MOFA(管轄の食糧農業省)がストに入ったんだよ。」

とのこと。

マジスカ・・・・

まぁ、北部はたまたま「イード」でどっちにしろ2日ほど休みだけど、早く終息して欲しい・・・

ということで、明けて「イード」。

今回のイードは犠牲祭で、世界中のムスリムによりたくさんの家畜が屠られます。

ホストファザーの家に行くと、早速家の羊が絞められていました。

頸動脈を一刀両断。いわゆる放血殺ですね。

気管から息がヒューヒュー漏れる音、溢れ出る血。そして消えていく命。

人間は、植物であれ、動物であれ、生きる為に何かの命を犠牲にしていると改めて思い知らされます。

さて、ここからは個人的視点から。あくまで個人的視点です。

個人的にはこのような犠牲祭は日本でもあればいいのに。と思います。生で見ないにしろ少なくとも生き物がどう死ぬか。それを年に一度くらいは知りたい人にだけでも知る機会を持てても良いと。

なぜか。

自分たちが食べるものくらいどのように食べているかを知る「責任」は僕たちにはあると「自分は」思うからです。

少なくとも、「血をみるのがダメ」とかなんらかしらの主義(ベジタリアンとか)、思想、理由があるなら兎も角、何となく気持ち悪い。可哀相と思う人、そういう事すら考えられない人には特に。

愛護をする人は自由にどうぞと思います。動物を可愛がること、僕も人並み以上に好きなので否定しません。その行き過ぎた愛情から他人に干渉してさえこなければ。

遺伝子組み換え、残留農薬・薬品だけは目敏く見つけ糾弾するのに、自分たちが食べる肉がどのようにして作られて食べられているのか誰も何も言わない。知りもしない。というか、本当にどれくらいの人が知っているのだろう。

ともすればそれを見ることは残酷であり、穢れたことであると。

自然の摂理に反しているわけでもないのに・・・

使い古された言葉だけど、命を「いただいている」。そのように、羊を殺し、食べていて改めて思うことができました。

そして、年長の人(父や叔父)が子供にさばき方を教え、伝えていくその姿が素直にいいなと思えました。

そのような文化・伝統は、少なくとも単純に前時代的だから、と否定できるものなのだろうか・・・と思ってしまう。

徹底して完璧を目指す日本社会はガーナから見ていると素晴らしいと思う。

時間通りにくる公共の乗り物。24時間なんでも買えるコンビニ。高速で繋がる通信。止まらない水、電気。

と、同時に、少し視点を変えてみると穢れを廃し続けてきているそのような日本社会は「生き物」として、少しおかしくなってきていないだろうか。

2010年の口蹄疫で何十万頭も殺処分しなければならなかったこと。

岡山での研修で、数百頭規模の農家さんを見て、これを、この辺り一帯全て殺さなければいけない。その事実に目眩を覚えました。

はたして、どれくらいの日本人がこれはものすごいことだと思えるのだろう。

小学校2年生のとき、担任の先生がとても怖く、茶碗に付いているお米を一粒でも残していたらホントに殴られかねない勢いですごく怒られました。

お米を作ってくれる人に失礼だからだと。

今これをやったら、その先生は厳重懲罰・下手したら免職なんでしょうか。

それは「文化」の違いだから。

で片付けてしまってもいんでしょうか。

「自分」はおかしいと思う。