In Blue Skies

とある獣医の青年海外協力隊日記からのイギリス大学院留学

5年が経ちました。

2011年の3.11日から5年が経ちました。

 

この5年で自分自身の環境は、自分が思っている以上に変化しました。

 

5年前の今日。

 

自分は住んでいたエリア、そしてたまたま車を運転していたこともあり、直接「地震

というものを経験しませんでした。

 

その後も、地震が起きた。

 

その事実だけを、携帯で確認し、たまたま仕事が休みだったこともあり、スーパー銭湯に行き、そこでテレビを見て初めて津波が起こったことを狂ったようにどの局も報道している事態に直面しました。

 

実感がわきませんでした。

 

何か、ちょっとしたスペクタクル映画を観ているような、そんなどこかしら他人事のようにしか思えませんでした。

 

地震が起き、連日のように、被害が増えていきます。

 

福島の原発メルトダウンが発生し、放射能がばら撒かれました。

 

でも、自分は動物病院のテレビで窺い知れるだけ。

 

コンビニやスーパーで一時期特定の商品が買えなくなりました。

 

電気店に行くと、「自粛の為」と電気が消されていました。

 

スーパーにいくと募金箱が置いてあります。

 

でも、やはりイマイチ、わかっているけれど、それは世界のどこかで今日も何か悲惨なことが起きているような。

 

そういう感覚しかなく、自分にできることといったら小額でも募金をすること、毎日の仕事に没頭することぐらいでした。

 

そのような考えのまま、仕事を退職し、自分は福島に行くことになりました。

 

協力隊の訓練の為に。

 

郡山駅に降りたとき。

 

道を歩いているとき。

 

津波の影響をうけてないその地域は、福島県といえど、なんら変わらない光景でした。

 

まるで地震なんてなかったかのように。

 

でも、少しだけ違うことがありました。

 

訓練所・雪の降る本宮の公民館に置かれた「線量計

 

それは自分のこれまで送っていた日常生活の中で明らかに「異質」なものでした。そして、それは静かに、この日常に放射線という見えない「影」を植えつけました。何かに常に監視されているような。何か、居心地の悪い感じ。

 

それが今後数十年経って、結果、人体に影響があろうがなかろうが。

 

訓練所の食堂には、「福島の食材を使っています」と書かれていました。まるで、そう宣言しないとだめな様に。

 

訓練終了間際。生活班で飲み会をした中で、酔い覚ましに涼んでいて女将さんと話をしていました。

 

放射能のせいで、それがたとえどんなに微量な放射能でももう、今までみたいに山で採った山菜をお客さんに出せなくなった。それがとても悲しいと。

 

 

自分はおそらくその場所に行って経験しないと本当に「理解できない」人間なのかもしれません。でも、上記の経験のおかげで福島というところを少しだけ、伝聞じゃなく実感として知ることが、少なくとも自分の中ではずっと深く心に残る形で知れたと思います。

 

10年、50年、未来はどうなるかは自分みたいな浅学な人間にはわかりません。

 

ただ、「あのこと」が起きた事実だけは変わりありません。

 

 

神様 2011

神様 2011

 

 

 

これから自分は健康な限り、環境が許す限りできれば海外に出たいと思っています。震災の為にできることは自分にはごくごく限られているでしょう。

 

でも、「あのこと」を心に留めて、その大きなマイナスがいつかプラスに変わることを信じて自分のできることをしていこう。

 

外に出てる「日本人」として恥ずかしくないように。

 

改めて心に留めようと思います。