In Blue Skies

とある獣医の青年海外協力隊日記からのイギリス大学院留学

ガーナで一年半暮らす中で得たもの・失ったもの。

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他国の隊員が

 

 

協力隊に来て得たもの失ったもの

 

というタイトルでブログを書いていた。

非常に興味深い内容で、また確かに今のこの状況は、自分の人生で当たり前だが、もう二度とないだろうという貴重な一回きりの経験だと思うので、

自分なりの得たもの・失ったもの。

を考え、書いてみたいと思う。

協力隊の人だと結構被る内容かもしれないけれど笑

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得たもの。


・少々のことでは、動じない力


なんといってもこれが一番海外生活を行うことでついたのではないかと思う。

停電・断水・通話、通信不能・すぐには動かない交通機関日常生活でのインフラ諸々。

今にも壊れそうなトロトロやタクシーに乗って移動している自分(最も毎回乗る際に一応、お祈りはしていますが)

ガーナ人の相当ないいかげんさ(まぁ、本当にもう少しましになってほしいけど)

これらの日本にいたら、

「えらいこっちゃ!!」

なこともここにいたら、特になんとも思わなくなってしまった。


適応とは怖いものである。


・海外と日本の違いを判別する自分の中の「もうひとつの軸」


以前、ブログにも書いたけれど、ガーナ側から見る日本の特殊さ・異質さにも気づくことができた。


すべてが完璧すぎる社会。

キレイすぎ、正確すぎ。

人間なんだから100%は無理なのにと常々思う。

この記事を書いている時点で話題になっている異物混入なんか、ガーナではしょっちゅうなのに。

それを煽り立て、さも大問題のようにするマスコミ。実際に文句いう人たち。

自殺者が年間3万人もいる国。

そういう「経済大国」が果たして「幸せ」なのかな・・・・と旅行時代に薄々感じていたことを生活することで改めて、実感として、思うところが出てきた。

もちろんそれでも、自分は「日本人」だから、ガーナという国より日本を選ばなければいけないだろうけど。それは、前述とは矛盾するかもしれないが、物質・その他色々な意味で。

 

ただ、結果日本に暮らすにしても、そのようなもうひとつの判断基準を持てたのはとても大きいのではないかと思う。

 

・自分の実力の無さを客観的に見れる機会


協力隊に来て、途上国に放り出されると、否が応でも、自分の「しょぼさ」というものを見せ付けられる。

一番顕著なのは、やっぱり語学のしょぼさ。

あと、なめられることへのつまらない苛立ち。

上記とも重なるけれど、なぜか(まぁどこの世界にもいると思うけれど)自分にたいした力も何も無いくせに人を見下す態度をとる人間はいる。

そして、残念ながらガーナにいると人種の違いもあり、なぜかいるだけでからかわれる機会というものがものすごく日本にいるよりも多くなる。
だいたいそういう馬鹿は、無視するに徹しているが、
自分のその日の機嫌によってはどうしてもいらだってしまう。

言い返したくても、向こうのが、(むちゃくちゃな文法と屁理屈といえど)英語が喋れるので、結果的に余計ストレスが溜まる。


また、本当に嫌なことだけれども、活動が上手くいっている隊員へのどうしても抱いてしまう微かな嫉妬ももちろん出てしまう。。

 

そして、何より自分が「何もわかっていないこと」、自分の学んできたことが全く通用しないこと。

これは、悔しい。本当に悔しい。

もっと知識があれば、スキルがあれば・・・・

そのような日本にいる時とはまた違った悔しい思いを嫌というほど味わうことができた。

だからこそ、自分が今後「それをばねに何がしたいのか」

という目標を見つけられたんだと思う。


失ったもの

・社会的な地位

自分は、協力隊に来る前は、獣医師として動物病院で3年間働いていた。
協力隊に来なければ、勤務獣医師として5年目を経過し、協力隊が終わる頃には6年目に入っている。

もし、動物病院という場で続けて働いていたら、開業を志す人ならば、それに向けて準備を始めたり、より雇用条件がいい病院で働いていることが可能だったと思う。
何より、少なくとも「日本社会」では、「動物のお医者さん」、「先生」として、それなりの社会的地位は保証されていたと思う(雇用条件云々は別として)

 

新卒カードは、獣医師に限って言うならば国家公務員(獣医師枠)を受ける人、もしくは企業の研究職を目指す人以外は(地方公務員でさえも)あまり重要視される世界
では無いため、それほど意識していなかったが、それでも国家公務員の年齢制限を見ると、この二年間で転職を考える上での「選択の幅」は少なからず狭くなったように感じる。


・健康な身体

来る前はそこまで意識して考えていない人も多いかもしれないけれど、途上国の隊員の暮らしは日本での生活に比べると確実に「過酷」である。

極寒、酷暑の環境。種類の少ない食材。安全基準が格段に低い(無い?)食品・生活用品。

快適性の無い日常生活の諸々の道具(乗り物、寝具など)。

変な病気。

数週間の旅行程度ならあまり気にしないことでも、2年間になると確実に身体に疲労やダメージとして蓄積している・・・と言うことは出発前の隊員の写真などを
みていてもわかる。

20代、30代という肉体に多くの隊員は甘んじているかもしれないけれど、日本社会は全てが完璧な確実に「温室」であり、「温室育ち」の日本人は
少なからず、2年間の途上国生活で身体的な負担がかかっていると思う。


・世界を新鮮な目で見るということ。

協力隊をしたことで、一番失ったな・・・と思うことは、まさにこれではないかと思う。
少々のことに動じなくなった・・・という得たものと「コインの裏表」みたいなものかもしれないけれど、いわゆるThe 途上国であるサブサハラアフリカに来たことで、おそらく今後、どのような国に言っても
学生時代に旅行したときのような「胸が高鳴る」ということや「なんにでも新鮮さを感じる」といった類の感覚は持てないだろう。

そして、その旅の中でできた様な様々な人との出会いもおそらく、もう経験できない。

協力隊にきたことで、色々なバックボーンをもち、すさまじいキャリアを持った尊敬できる人とたくさん出会う。

でも、その人たちの凄さは、自分もこのような「社会貢献をしたい」というひとつの社会的手段・目標としての尊敬であり
(もちろんこのような人たちは、人格等もとても素晴らしく、見習わなければならない点がとても多い)。

10代後半~20代前半に同じように海外(旅先)で出会った人達のように、自分の人生の「核」というか、「自我」的なものには影響を及ぼすことはない。

(ちなみに自分が一番影響を受けていると感じるのは、今もって、「インドの姉ちゃん達」である。おそらくどんなに時が経っても。)

 

それは、寂しいことだけれど、自分が「ある種の成長をした」ということ・・・かもしれない。

 

そうやって振り返ってみると、学生時代に色々なところに旅に出ておいて本当に良かったと思う。

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こうやって書いてみると、実は、失ったものと得たものは前述のように「コインの裏表」であることが多いことに気づく。

「マイナスの中にもプラスがあり、プラスの中にもマイナスがある」

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10代のころに目にし、それ以来心の教訓にしている遠藤周作氏の色々な言葉の意味を強く実感する。

失った、得た。

それは結局、「失う」、「得た」

どちらに自分の心のシーソーが傾いているか・・・だけなのではないだろうか。

あと、5ヶ月、願わくば「得た」と思うことが多い、実り多い滞在にしたいと思う。

 

最後に、ネットで上記の遠藤周作氏のエッセイがあったので載せさせてもらいます。

 

 

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かなり人生を生きたおかげで、私はマイナスにもプラスがあり、プラスにもマイナスがあることを充分にまなんだ。たとえば半年のあいだ私は病気がちだったが、この肉体的なマイナスのおかげで自分の人生や他人の苦しみを察することが多少はできるようになった。かえりみると病身でなければ私は傲慢な男でありつづけていたかもしれぬ。私はある面で臆病だが、この臆病さゆえに仕事の準備などに慎重であることもたしかだ。マイナスにもプラスがあり、プラスにもマイナスがあるのである。


  だから私は自分の能力や性格にコンプレックスを持っている若い人には、その欠点やコンプレックスをプラス面に変えることを教えている。口下手な人間がいくら上手にしゃべろうとしても困難である。「口下手」という欠点に悩んでいるなら「聞き上手」に変ればよい。聞き上手ということは長所である。


  二番目にマイナスにもプラスがあり、プラスにもマイナスがあることがわかったならば、どんなすばらしい主義思想も限界をこすとマイナスになり、どんなすばらしい善も限界をこすと悪になることを知ることだ。それは独善主義から自分を救うのに役立つからである。革命はすばらしい主義であろうが、それがある限界をこした時、非人間的なものになることでもこの観点はわかってもらえるはずである。他人を愛することはすばらしいが、それが限界をこすと相手に重荷を与え、相手を苦しめることさえある。その限界がどこかをたえず心のなかで噛みしめておかねばならぬ。
  三番目に一人の人間のなかにはいろいろなチャンネルがあることを知ることだ。今までの世のなかでは「ひとすじの道」と言って、自分のなかの一つのチャンネルの音だけだす生きかたをする人が多かった。私は自分のなかのいろいろなチャンネルをまわし、人の二倍を生きた気持になっている。
  私がもし若い人を教育するとしたら、この三つをいつも語ってきかせるだろう。落ちこぼれのなかにプラスがあることを話すだろう。少年時代に私は落ちこぼれだったが、それが今、小説家として人間を知る上でどんなに役にたっていたか、わからない。人生というふしぎな過程のなかには、無意味なもの、無価値なものは何ひとつないのだ、という確信は私の心のなかでますます強くなっている。
  だから挫折も失敗も病気も失恋もプラスにしようとすればプラスになっていくのだ。そのプラスにする知恵を教えてやるのが、私は本当の教育だと思っている。