In Blue Skies

とある獣医の青年海外協力隊日記からのイギリス大学院留学

読書感想文 〜夜と霧を読んで〜

夜と霧 新版

単行本

¥ 1,575

遠藤周作が、著書の中でたびたび紹介していた、「夜と霧」

ずっと本棚に積ん読になってたのを偶然見つけ、ようやく読破しました。

内容的には、第二次世界大戦の際、アウシュビッツに代表される、いわゆる「強制収容所」で、囚人としてすごした精神科医のレポートというかルポというか、という、書籍。

強制収容所内での、日常生活、そしてそれに伴う精神状態の変動が、きわめて、静かに、かつ詳細に書かれています。

特に、付け加えることというのは、ないけど、自分の中で、心に残った言葉なり、場面なりを記載しておきたいと思います。

 

 

 

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そしてとりわけ、人間の精神が収容所という特異な社会環境に反応する時、ほんとうにこの強いられたあり方の影響をまぬがれることはできないのか、このような影響には屈するしかないのか、収容所を支配していた生存『状況では、ほかにどうしようもなかったのか』と。

こうした疑問にたいしては、経験をふまえ、また理論にてらして答える用意がある。経験からすると、収容所生活そのものが、人間には「ほかのありようがあった」ことを示している。その例ならいくらでもある。感情の消滅を克服し、あるいは感情の暴走を抑えていた人や、最期に残された精神の自由、つまり周囲はどうあれ「わたし」を見失わなかった英雄的な人の例はぽつぽつと見受けられた。一見どうにもならない極限状況でも、やはりそういうことはあったのだ。

強制収容所にいたことのある者なら、点呼場や居住棟のあいだで、通りすがりに思いやりのある言葉をかけ、なけなしのパンを譲っていた人びとについて、いくらでも語れるのではないだろうか。そんな人は、たとえほんの一握りだったにせよ、人は強制収容所に人間をぶち込むことですべてを奪うことができるが、たったひとつ、あたえられた環境でいかにふるまうかという、人間としての最後の自由だけは奪えない、実際にそのような例はあったということを証明するには充分だ。

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遠藤周作は、おそらくこの場面、自分が死ぬかもしれないという、極限の状況下で、それでもなお、そっとパンを置ける。それだけでも、まだ、人は信ずるに足る。ということを説いています。

 

 

 ……行動的に生きることや安逸に生きることだけに意味があるのではない。そうではない。およそ生きることそのものに意味があるとすれば、苦しむことにも意味があるはずだ。

苦しむこともまた生きることの一部なら、運命も死ぬことも生きることの一部なのだろう。苦悩と、そして死があってこそ、人間という存在は初めて完全なものになるのだ。」

 

『生きる意味を問う』

「ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。

哲学用語を使えば、コペルニクス的転回が必要なのであり、もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。

生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。考え込んだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。

生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。

……人間は苦しみと向き合い、この苦しみに満ちた運命とともに全宇宙にたった一度、そしてふたつとないあり方で存在しているのだという意識にまで到達しなければならない。

 だれもその人から苦しみを取り除くことはできない。

だれもその人の身代わりとなって苦しみをとことん苦しむことはできない。

この運命を引き当てたその人自身がこの苦しみを引き受けることに、ふたつとない何かをなしとげるたった一度の可能性はあるのだ。」

 

ホントに引用ばかりになってしまった。

ただ、この、実存主義的な考え方。自分はすごく好きです。

願わくば、自分も苦しみに直面した時、このような心境を持って、その中に何かの意味を見いだせたら、と思うばかりです。