In Blue Skies

とある獣医の青年海外協力隊日記からのイギリス大学院留学

心のチャネルが開くとき。閉じるとき。

研修も残すところ、一週間と少し。

学んだこと、思うこと、たくさんあって書ききれないほどですが、

技術、知識的なものは後日として、できる限り、このブログでは、自分の心理状態も書きたいと思っていたので。自分が3年とはいえ社会で働いたうえで、研修をしていて今感じること。というのを今回書こうと思います。

今、自分でも、感じるのは、とにもかくにも、

自分の「心のチャネル」が開いている。ということ

話す人、見る景色、感じたこと、全てがものすごくダイレクトに心に突き刺さってくる。

嬉しい話を聞くとものすごく、嬉しくなるし、逆に辛い空気を感じると、自分も辛くなる。

良い言い方をすれば、感受性がめちゃくちゃ上がっている。

悪い言い方をすれば、若干、躁鬱っぽい感じ。

いわゆるカミーユ・ビダン状態に近いかもしれないです笑

自分は、小動物臨床、いわゆる動物病院で、青年海外協力隊の技術補完研修が始まる前日まで、勤めてました。

月の休みも7日と決められてたし、1年目の夏からは必ず、最低でも週1回2晩くらい、診察終了後も、電話対応、夜間の救急当番をしていて、それこそ、夜中の3時に叩き起こされ、なんやかんやで終わったら7時で、そのまま、ちょっとシャワーだけ浴びて通常診察をこなして・・・・みたいな生活を、普通にしていました。

ちなみに、小動物臨床なら、まぁ別に珍しい勤務体制でもないです。むしろ最後の方は、他と比べたら楽な方だなぁとも思ってました。

普通に「先生」、と呼ばれ、3年目には院長不在の時でも、当たり前のようにちょこちょこ任されたり。

2年目くらいからは、それなりの「責任」と「プロ意識」を持ってやってたと思います。(一年目は、正直いっぱいいっぱいで記憶があまりないくらいですが笑)

そんな、環境から一転して、研修にきてから、自分は「先生」という肩書きがはずれ、一介の研修生という立場になりました。呼称も「くん」。給料も責任もありません。9時5時で休みもバッチリ。

もちろん、大動物に関しての技術も、知識も何もないので、自分としては、全然それで問題なかったんですが、

「肩書き」、「責任」が外れること、そしてそれに伴う身軽さから感じることが、日々上記のような感じで色々あります。

友達や、協力隊の人との会合は何より楽しく嬉しかったけど。

けれど、それよりも、最近、辛い、モヤモヤする。。という風なことで一番感じてしまったのが、前回も書いた安楽死について。

ただ、そういう事があったから、自分が今上記のような状態になっていることに気づけて、それを書こうと思ったのかもしれないです。

でも、実際小動物の時の自分とは、全く違って・・・・

猫の口腔内腫瘍。セカンドオピニオンで来られて以来ずっと一緒に診てきて、どうやっても食べられなくて、その姿を見るくらいなら、と安楽死を選択された飼い主さんがいた。

こちらの質問にもきびきび答えてくださって、意志のしっかりした年配の女性。助からない可能性が高いと知ったときもうろたえることなく、こちらとしても失礼ながらホントにやりやすく、飼い主の鑑みたいな女性だった。

その人が、安楽死を施した時、初めて泣かれ、それでも「ありがとうございました」と言った時。そのときでも、自分は気丈に振る舞えたし、特に、モヤモヤとすることも、少なかった。辛いこともほとんど流せている自分がいた。

「それが仕事」だと思えたから。

だから、昨日、自分があそこまで、自分の中で消化できなくなっていたことに驚いた。

改めて、今、自分は、「素」に近い状態にいるんだなぁ。と。

頭でわかってても、心で納得できないような感じというか。

去年転職をした友達が言っていた、「仕事辞めると開放感半端ないよ」という言葉の意味。

それは、きっと、社会の「責任」、「肩書き」なんかで、

閉じていた、自分の「心のチャネル」が一気に開くからかもしれないなぁ。と解釈しています。

正直、学生時代にあれだけ大切にしていた、物事の空気感も仕事をしていて感じられなくなっていたし(感じなくしていたし)、その雰囲気を好きな写真に撮る。

ということもできなくなっていた。なにより、自分が撮りたいと思えるような空気を感じれなくなっていた。

逆に、人からの叱責や、プレッシャーなんかは、自分でも怖いくらいに流せた。

ただ、この「心のチャネル」が開くこと。それが、良いのか悪いのかと言われると、とても微妙で。

芸術家なら、その感受性、「心のチャネル」を開けっ放しにしていなければいけないだろうけど、自分みたいな凡人は、何年かしたら、どんな環境かはわからないけど、また何かの「肩書き」なり「責任」を担いでいかなければいけないと思っている。

・・・し、そのほうが、生きて行く上で楽なんだろうなぁ。とも思う。実際、昨日みたいなある種些細なことを、上手く流せなくなっていると、日常が辛いだろうなぁと。

「肩書き」を獲得することは、良い意味で「チャネル」を少しずつ閉じて行くこと。だと。そして、それが大人になって行くことなんだろうと。

けれど、今、せっかくこの状態。良いこと、そして、もちろん辛いことも、すごく敏感に感じてしまうようになっているけど、

逆にこの感覚は、限られた時間、環境しか、味わえない。ということを一度なりとも社会の肩書きを身にまとった今だからこそ、理解できた。

こんな限られた、今を大切にして、そして、それを踏まえて、今後、責任ある立場にいたいなぁ、と今研修も終わりに近づき感じているこのごろです。